「いじめ」と「不登校」そして「新任教諭の早期退職」はどのように繋がっているのか【西岡正樹】
生徒や教師にとっての「学校の居場所」とは
■「みんながいない時に学校行きたい」
三郎の変化はおよそ3か月ごとに起きた。「放課後の教室訪問」の次に起きた変化は、早朝の登校(6時台に学校に登校、8時半に下校する)だった。それは、三郎の「みんながいない時に学校行きたい」から始まった。それを続けていると、早朝登校から午前中まで空き教室で過ごすことができるようになった。
そして、それから少しずつ視野が広がり、人との関りを求めるようになり、保健室(給食まで保健室にいた。時々養護の先生と関わりながら)に「居場所」が変わった。その変化は、私たちにとってとても大きな喜びだった。三郎にとって、家族と私以外の他者とのつながりがなかったからだ。その年の末には、再び空き教室に戻り、早朝からみんなが下校する間近まで学校で過ごせるようになった(そこでは友だちが三郎の「居場所」にやってきても平気になり、空いている先生が三郎と関わることができるようになった)。
そしてようやく、三郎がみんなのいる教室に入れたのは、なんと5年生最後の(終業式)の日だったのだ。みんなに拍手で迎えられた時の三郎は、はにかむような笑顔を見せた。そして、躊躇することなく静かに、みんなの中に入っていった(その姿に、お母さんも養護の先生も、そして私も涙した)。
これだけの、手間と時間をかけて三郎は自分の「居場所」を見つけ、一つずつ増やし、そして、少しずつ活動の範囲を広げていった。こうして、言葉にすると虚しくなるぐらいの簡潔さだが、そこには多くの子どもたちのサポートがあり、多くの先生たちの協力があり、そして、なにより家族の支えがあった。この1年間、早朝登校の付き添いからお迎えまで、お母さんは仕事をやりくりしながら、ほとんどを一人でこなした(急な時にはおじいさん、おばあさんの力をお借りした)。また、三郎が空き教室にいる時は、時間の許す限り一緒に過ごした。こうした多くの人との関わりと長い時間をかけて、三郎は自分の「居場所」をいくつも見つけることができた。そのために必要な時間が1年間だったのだ。その後、6年生になった三郎は、登校を続け無事小学校を卒業した。